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「ダークサイドミステリー~謎の無人島 鳥島サバイバル 人の生命を試す島」(NHK-BSプレミアム)
番組のうたい文句は「必ず故郷に帰る!水も草木もない地獄の火山島に漂着し、19年も生き延びた男たち。いったいどうやって? 過酷な島を生きた人間の究極の知恵と勇気と絆とは? 生命の感動秘話」
歴史の教科書にも載らない史実が江戸時代にあったことに驚かされます。謎の無人島とは、小笠原諸島の一つに属し、東京から582Km離れ、火山でできた絶海の孤島“鳥島”です。
1739年5月6日、江戸の輸送船(宮本善八船)が、関東の近海で遭難、4か月漂流して絶海の孤島、鳥島に流れ着いた。乗組員は17人。このうち3人が水や食料を探しに島に上陸、絶望のうちに島内を探索すると、無人島と思われたはずなのに、なぜか人の気配を感じる。
石積みなど人の手を加えられた痕跡があることを発見、さらに詳しく島内を調べ回ったところ、住居と思われる適当な大きさの洞窟を発見する。身構えて洞窟内に入っていくと、髪はぼうぼうで鳥の毛皮をまとった3人の異形の男が目の前に現れる。その中の一人が言った。
「私たちは遠州新居の者。この島に吹き流され今まで生き延びてまいりました」。1720年に輸送船「鹿丸」で石巻から江戸に向かう途中、九十九里沖で遭難し56日間漂流したのち鳥島に漂着、それから、なんと19年もの間生き延びてきたというのだ。
江戸時代、この島に漂着した遭難者は、記録に残っているだけで1681年から1867年まで15件122人にのぼる。1841年1月に鳥島に漂着したジョン万次郎こと、中浜万次郎もその一人。万次郎たちはアホウドリなどを食べ、約4か月を生き抜いたあと、アメリカの捕鯨船に救出されました。アメリカ本土にわたり、捕鯨で財をなし幕末に故郷に帰還したことで知られています。
この記録の中で、1720年の「鹿丸」の漂着者は12人。うち発見されるまで生き延びたのは3人で、その期間は19年と長いものでした。鳥島の火山島で川も湧き水もなく、断崖絶壁に囲まれた厳しい自然環境の中で、彼らはどのようにしてサバイバルできたのでしょうか。
「鹿丸」の船頭佐太夫は途中で病死してしまいますが、彼のリーダーシップが第一の功績だと、番組は言っています。
無人島の中で生きる目的を説き、そのためにやるべきことをメンバーと共有し、生活の規律を重んじたこと。生きるために、容易に捕獲できるアホウドリばかりを食べるのではなく、捕まえて干し肉にし、その皮や羽根は衣類にし、釣り道具を作り、岩と岩のあいだにある僅かな土を利用して、漂着した米俵にあった僅かばかりの赤米を植え、魚やウミガメを食べるなど、バランスの良い食事を心がけていたこと。
加えて、上陸時に斧、桶、火打石など、生活に必要なものを持ち込んだことが生きるための助けになりました。また、月の満ち欠けをもとに年月を把握していたこと。雨水を溜め1日の飲む水の量を決めて、例外を作らず徹底したこと。そして、島で生きる延びる意味を仲間一人一人と話し合い、全体で共有したこと。規律正しい生活を送ることにより心の崩壊を逃れ、結果として死への恐怖に打ち克ち故郷に帰ることへの希望を持ち続けたこと結論づけています。
12人のなかには心のバランスを崩し自殺した者もいたといいます。佐太夫は亡くなる前に、いつか戻った時に必要と考え、大切に保管していた下田奉行から発行された「運送業手形」を仲間の中で一番若い者に託しました。
生き延びた3人は「宮本善八船」の漂流者と力をあわせ、打ち寄せられた木材などで小船を修復し、19年生き延びた鳥島を脱出します。島を去るにあたって、これから不幸にも漂着した人たちの為に、様々な道具、保管できる食料、木片に書いた記録などを残しました。
艱難辛苦の末、約200キロ離れた八丈島にわたり、江戸にもどった彼等は、将軍吉宗に謁見したという記録が残っています。この時代に鳥島に漂着し生き延びた詳細な記録を、のちの世に伝えるために公文書として残しました。その後3人は故郷の遠州新居に戻り穏やかな余生を過ごしたと伝えられています。
このサバイバルストーリのテーマは、今の時代にも通じる、船頭佐太夫のリーダーとしての資質であり、まさに信頼される人間性と将来を見越す先見性を備えたリーダーのあるべき姿を語っています。