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第2次世界大戦終戦後の間もない昭和20年10月2日、アメリカの小説家で1931年に代表作『大地』を発表してピュリッツァー賞を受賞したパール・バック女史が、毎日新聞に寄せた「日本の人々に」と題する一文こそ、新植民地主義や独裁国家の横暴な振る舞いによって”崩壊寸前”の世界平和に鳴らす警鐘といえるでしょう。
「民衆が自由で独立的で自治的である国は、いかなる国でも常に善なる人々と悪なる人々との間に闘争の行われる国である。
もしこの闘争が存在しないならば、それは暴君が支配して善き人々が力を失っていることを意味する。
物事を合理的に考える知的で勤勉な一般の人間というものは。自分に発言権を与えないような政府を長期にわたって耐え忍ぶことはできないものだ。彼らは自分の運命が独裁者の手に落ちていると知ったとき、一切の感覚を以て来るべき危険を感じとり、嗅ぎつける。
人々が自らの創造力、発明力、表現力を発展させてゆけるのは、ただ自治の下においてのみである。但し邪悪に対する永遠の闘争を続けてゆく善良なる人々にとって自由は常に責任を伴ってくるものだ。日本はもちろんのこと、その他世界のいずれの国の善なる人々にとっても、現在はなお何らの休息、何らの平和は存在し得ない。彼らは自らの眼を覚まして活動せねばならぬ。どこの国民にしても、全体の中にはどこかに善なる者がいるのであるから、国民すべてを一概に咎めることはできない。咎め得るもの、咎めなければならぬものは、いずれの国にあっても、悪に対して善がこれを監視せず、これと闘争しないということである。
永遠監視の眼は、言論の自由という問題に対して終始間断なく注がれていなければならない。
善なる人々は他人の声を黙らせようとは欲せず、すべての人に対して自由を許容せんと欲する。彼らは完全な真理を把握しているのは自分たちだけだというほど慢心してはいない。すべてのものが自由にものをいうことを許されている以上、悪なる人々もまた発言するであろう。しかし善なる人々の声は悪なる人々の声よりも数多いはずであり、一段と明瞭なはずである。
このことを善なる人々は自らの責務として認めなければならぬ。何故なら、自由というものは真の自由でなければならず、自由が或る一部の人々によって行使されて、他のものによっては行使され得ぬということは、あり得るべきことではないからである。」と論じたうえで次のように結んでいます。「日本やドイツの善なる人々にして万一にも自由を享受し得てしかも責任を伴わずに生活のできるような国を夢想しているとすれば、彼らはその空中楼閣的な夢から呼び覚まされなければならぬ。日本の善なる人々よ、あなた方は1時間の休息さえとることはできない。何故なら、善なる人々はいたるところあなた方の力、あなた方の周到な要心、あなた方の決断が彼らのそれに加えられることを必要としているからだ。」