今様つれづれ草

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“寺子屋”が育んだ江戸の人間教育

江戸時代、師匠とお寺の一室さえあれば開講できた“寺子屋”は、全国で2万を超える数があったと言われています。

 

寺子屋が普及した背景には、経済が発展し庶民の生活が多様化すると、商家、農家を問わず、商取引・土地売買・金銭貸借・家督相続などの懸案が多くなり、約束事を証文にし、争いを防止するために“読み書きそろ盤”を必要とする社会のニーズがあったこと。加えて幕府が、百姓や町人の後継ぎになる子供たちを、一人前に教育することを推奨する政策を進め、教育内容や運営には一切介入せず、許認可の必要もなく開講できたことがあげられます。

 

その結果、庶民の間で「“読み書きそろ盤”を習得させたい」という教育熱が高まり、寺子屋が全国に広がりました。黒船で来航したペリーが庶民の教育水準の高さに驚いたと伝えられています。

 

寺子屋の教育システムは、男女共学で、読み書きそろ盤を基本に、道徳・しつけ・礼儀作法などを教え、子供たちの実情や特性に合わせ「何を教えるか」は先生の自由裁量に任され一対一の指導を行いました。しかも入退は自由でした。寺子屋は子供たちを一人前の人間にするための教育システムとして十分に機能し、その目的を果たしていたと言えるでしょう。

 

一方、武士階級の教育機関として、各藩の藩士を教育するための「藩校」がありました。江戸後期には全国276藩のうち215藩が藩校を開いていました。江戸幕府が学問を学ぶ場所として作った昌平坂学問所をはじめ、著名な藩校として会津藩の日新館、岡山藩の閑谷学校、米沢藩の興譲館、長州藩の明倫館、 土佐藩の致道館、熊本藩の時習館、薩摩藩の造士館などがあります。

 

教育内容は、武芸は無論のこと、漢学を中心とした儒学や、江戸後期に外国の文化などが入ってくるようになると、蘭学、医学などがカリキュラムに加えられ、幅広い教養を身に付けるため、藩主の意向で著名な専門家が招聘され教鞭をとりました。藩校の一般的な傾向として、7〜8歳で入学し14〜15歳から20歳くらいで卒業しましたが、評価は厳しく成績によっては罰則が科せられ、将来の出世や禄高に大きく影響しました。

 

もう一つの教育機関に「私塾」があります。私塾は寺子屋や藩校と違い、個人が設立した教育機関です。現在で例えると大学にあたり、一般的な知識と教養を身につけた若者たちが、専門性をさらに高めるために設立されました。特に有名な私塾は、長州の「松下村塾」があげられます。松下村塾の特徴は身分に関係なく入塾できたことや、講義よりも塾生同士による会話や討論を重視した独特の教育方針にありました。ほかにも著名な私塾として、本居宣長の鈴屋(三重県)、緒方洪庵の適塾(大阪府)、シーボルトの鳴滝塾(長崎県)などがあります。

 

このように江戸時代の教育は、士農工商という身分制度を超える柔軟性と、学びたい人たちのニーズを反映する多様性を重視していました。